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JR学研都市線「鴻池新田」駅周辺。このあたりは、約300年前、当時天下一の豪商と言われた鴻池善右衛門宗利が、旧大和川の付け替えに伴って新田を開発したエリア。駅周辺に、今はほとんど田んぼはないものの、街道沿いには歴史を感じさせる史跡が残っています。現在は、JRの少し北を東西に走る府道大阪生駒線沿いに大小の店が並ぶほか、周辺には鶴見緑地公園や鴻池スカイランドなど、緑のスポットも点在。大阪へのアクセス至便な住宅地として、変わりつつある鴻池新田周辺をご紹介しましょう。
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平安時代から、東高野街道など大阪と奈良を結ぶ要衝として栄えたこの地域は、旧大和川が毎年のように氾濫、そのたびに周辺の農地は大きな被害を受けました。川の氾濫に苦しむ農民たちは、江戸幕府に大和川付け替え工事の実施を嘆願。一旦幕府が工事不要と決定した後も、最後まであきらめずに幕府に掛け合ったのが、今米村の中甚兵衛でした。工事不要の決定から50年近く経った元禄17年(1704年)、ついにその熱意が認められ、幕府は大和川付け替え工事実施を決定し、農民の悲願が叶えられました。工事後、広い旧川床や池沼地は埋め立てられて新田となり、また木綿も栽培され、河内木綿の名が全国に広がりました。こうしてその後、この地域は商都大阪の重要な後背地となりました。
かつての農村エリアも時代の移り変わり、そして交通機関の発達によって、商工業地域へと変化していきます。明治22年(1889年)に大阪鉄道(今のJR関西線)、明治28年(1895年)には、浪速鉄道(現JR学研都市線)が開通しました。また大正3年(1914年)には大阪電気軌道の大阪・上本町と奈良間(現・近鉄奈良線)も開通。鉄道だけでなく、国道・府道など幹線道路の整備も、商工業が発展するのに有利に働きました。
そんな商工業の町としての色合いがやや勝っていたエリアが、徐々に変わり始めたのは、平成2年(1990年)に開催された国際花と緑の博覧会(花の万博)あたりからでしょうか。万博開催後、自然豊かなスペースは、鶴見緑地公園として人々に親しまれるようになります。同時期、鴻池の下水処理場の上部が「鴻池スカイランド」として広場、バラ園などが整備され、憩いの場として開放されました。これと前後して、府道大阪生駒線沿いなどにスーパーやコンビニなど、暮らしに直結した店も増加。大阪市内にも近く、しかも物価も手頃な住みやすい住宅エリアとして、見直されてきています |
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■鴻池新田会所跡 |
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| 宝永元(1704)年、大和川の付け替え工事のあと、旧川筋で大規模な新田開発が始まりました。その中で鴻池善右衛門宗利が請け負い、開発した「鴻池新田」は最大の面積を誇り、広さ約200haにも及びました。この新田を管理運営するために作った施設が鴻池新田会所。国史跡・重要文化財にも指定され、一般公開されています。 |
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東大阪市鴻池元町2-30 TEL.06-6745-6409
午前10時〜午後4時 月(祝日は翌日)、年末年始休 ※臨時休館あり
入館料 大人300円、小中学生200円 JR鴻池新田駅から約250m |
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■小堤街道 |
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| 大阪市北区相生町で国道2号線と分岐、寝屋川沿いに大東市に入り諸福・御供田・中垣内を通り生駒を経て大和に至る街道。古くは大和街道中垣内越えと呼ばれたとか。現在も古い町並みが所々に残り、情緒の感じられる静かな 通りとなっています。 |
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匆入淵跡(ないりそのふち) |
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| 古代、大東市西部から守口・門真市にかけてあった「八ヶ(はっか)の湖」を、諸福では「匆入の淵」(ないりそのふち)と呼んでいたそうです。枕草子にも記されているとか。大和川付替えののちは田んぼとなり、今は鴻池新田近くに「匆入渕」の碑が残るのみです。 |
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勝福寺(羅漢寺) |
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| 曹洞宗で創建は慶長元年(1596)。現在の伽藍は、山門・庫裏・鐘楼・不動明王堂からなっています。本堂の鴨居に五百羅漢木像が安置されているが、もとは羅漢堂であったとのこと。明治18年の大洪水でお堂と共に多く流失し、現在では135体残すのみです。 |
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諸福天満宮 |
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| 寛永二十年(1644)、この地に天満宮を勧請し、同時に造られた本殿は江戸初期の桧皮葺の流造りながら、円柱・破風・斗 拱木鼻等にみられる彫刻は桃山建築の雰囲気を残しています。保存状態も良く、色彩も華麗。勝福寺に隣接。 |
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